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「超一流」サムスンをつくりあげた巨人・李健熙

記事一覧 2020.10.25 12:21

【ソウル聯合ニュース】韓国財界をリードし世界的にも注目されるサムスングループの李健熙(イ・ゴンヒ)総帥。創業者の三男ながら1987年に2代目としてグループを継承し、1993年に「妻と子以外はすべて変えろ」と新経営方針を宣言。アジア通貨危機を前例の無い構造改革で正面突破すると、サムスンは2000年代にグローバルITの強者にのし上がった。

李健熙氏(資料写真)=(聯合ニュース)

 李氏の卓越した経営手腕や人となりにまつわる話はあまたあるが、27年にわたりグループを率い「サムスン王国」をつくりあげたリーダーシップを説明するには十分とはいえない。これまでの人生を振り返りながらその洞察力と構想力をうかがい、革新への原動力を探る。

◇孤独な子供時代

 李健熙は1942年1月9日に韓国南東部の大邱で、サムスングループ創業者の李秉チョル(イ・ビョンチョル)とパク・トゥウルの末息子として生まれた。3男5女の7番目。父の秉チョルは当時、大邱の西門市場近くで青果や乾物を扱うサムスン商会を経営していた。

 健熙は慶尚南道宜寧郡で祖母に育てられた。1945年に日本による植民地支配が終わってから母親、兄弟と再会した。

 幼少期は父の仕事の都合で転々とした。1947年に大邱から上京、ソウルの小学校に通う。父の秉チョルが第一製糖を設立した1953年、健熙は先進国を学べという父の厳命で東京留学に旅立った。まだ小学5年生だった。

 長兄の孟熙(メンヒ、後に第一肥料会長)は東京大、次兄の昌熙(チャンヒ)は早稲田大に在学していた。健熙は昌熙と一緒に暮らしたが、九つも歳が離れていれば寂しさを感じることも少なくなかった。おのずと一人で考えこむ時間は多く、それが健熙の驚異的な直観力を育てたとも分析される。

 また、小学生のころから科学への探究心が飛びぬけて強かった。特に機械への関心が高く、手にしたものは何でも分解してみなければ気が済まなかった。後に、揮毫(きごう)する際はよく、「無限探求」という言葉を選んだ。

 健熙は寂しさを紛らわそうと犬を飼った。彼にとって犬は心を開ける友達となった。大人になっても犬に親しみ、趣味が高じ、1979年に日本で開かれたドッグショーに純血種の珍島犬のつがいを出展している。一時は飼い犬が150匹まで増えた。

 健熙はまた、映画に心酔した。日本留学の3年間で見た映画は1200本以上、特に日本の時代劇を好んだとされる。

 3年間の留学生活を終えると、ソウル師範大付属中学校に編入、付属高校に上がった。高校ではレスリング部に入り、2年生の時に全国大会に出場して入賞を果たした。早稲田大留学中に朝鮮半島出身の在日レスラー、力道山に会ったという逸話がある。

 健熙はラグビーにものめりこんだ。エッセイ「少し考えて世の中を見よう」(原題、1997年出版)の中で、ラグビーはいったん始めたらひたすら前進するしかないと綴っている。

 こうしたスポーツとの縁をきっかけに、健熙は大韓レスリング協会会長を務めるなどアマスポーツの育成に積極的に取り組み、1996年に国際オリンピック委員会(IOC)委員に選ばれた。

◇結婚、サムスン勤務

 内向的で口数は少なかったが、人を見る目は早くから養われてきた。高校時代の友人も健熙がそのころから人をよく観察していたと証言する。

 父の秉チョルは学生だった健熙に「ドジョウとナマズ理論」をたたきこんだ。ある農夫が片方の田にドジョウだけを放ち、もう一方の田にはドジョウとナマズを一緒に入れた。天敵のナマズに交じったドジョウはナマズより素早く動かなければ生き残ることができず、たくましく育った。これは健熙の経営哲学に基礎を築いた。自らナマズになろうとし、わが子を試す場にも常にナマズを入れた。

 高校を卒業した健熙は、名門私大の延世大に合格していたが、父の勧めで早稲田大商学部に進学した。大学卒業後は米ジョージ・ワシントン大の経営大学院で経済学を専攻、マスコミュニケーションを副専攻として学んだ。

 このころの健熙は自動車に夢中だった。自動車を分解しては組み立てることを繰り返し、構造にかけては専門家並みに詳しくなった。留学時代だけで車を6回買い替えた。米国駐在のある大使が乗っていた車を4200ドルで買い、しっかり乗り回してから、600ドル高く売ったという話もある。ぜいたくな趣味というよりは、車そのものに魅了されていた。

 米国で学業を終えた1966年、健熙はメキシコ旅行に出掛けたところ、ビザの問題で米国に再入国できず、東京に向かった。同年の冬、当時ソウル大応用美術科に在籍していた洪羅喜(ホン・ラヒ)と羽田空港で見合いをした。1967年1月に婚約し、羅喜の卒業を待って4月にゴールインした。

 結婚後、健熙はサムスングループの秘書室に2年間勤務し、グループの大きな構想を目の当たりにすることになる。

 1970年代、健熙は米シリコンバレーに足繁く通った。1973年にオイルショックが起きた後、先端ハイテク産業への進出を模索していた。その時彼の関心を引いたのが韓国半導体だ。粗悪な集積回路で電子時計を作っていた韓国半導体は破産の危機に直面していた。健熙はサムスンで買収しようと進言したが、秉チョルは首を横に振った。そこで健熙は自費で韓国半導体の50%の株式を買った。そして半導体の技術移転を求めシリコンバレーに通いつめた末に、半導体のパイオニア、フェアチャイルド社に30%の株式を譲渡する代わりに技術移転を取り付けた。サムスンのDRAM神話はここに始まる。

 グループの後継者として本格的に経営を学び始めたのは1978年8月、サムスン物産の副会長に昇格してからだ。創業者の秉チョルが胃がんと診断されて2年後にあたる。健熙はソウル・中区のサムスン本館28階、秉チョルの執務室の隣室で業務を開始した。秉チョルはその前年の1977年に日経ビジネスとのインタビューで、「健熙が後継者」と表明していた。

 秉チョルは以前から健熙の趣味嗜好は企業経営向きだと話していた。健熙の経営者としての人生は苦難の道のりとなったが、天職でもあったのだろう。

 サムスンの海外事業推進委員長を任された健熙は、民営化を推進していた国営企業の油公(現・大韓石油公社)の買収合戦に参入した。後継者としての能力を証明するチャンスが訪れたのだ。メキシコに飛び大統領や国営石油会社のトップに会い、原油の調達先を開拓しようとした。しかし、1980年に韓国政府が買収者に発表したのはサムスンではなく、鮮京だった。秉チョルのショックは大きく、健熙はしばらく父の冷たい視線にさらされた。それでもこうした経験は、健熙が経営者としてより大きな成功を収めるための肥やしとなった。

◇後継レース、サッカリン事件で兄ら脱落

 健熙がグループの経営権を受け継いだのは、副会長になって9年後、入社から数えると20年以上たっていた。

 秉チョルはもともと健熙にマスコミ部門を任せるつもりだった。早稲田大在学時代から勧めていたことで、健熙が1966年に最初に勤めたのはサムスングループの東洋放送だった。しかし、その年に起きたグループ傘下の韓国肥料によるサッカリン密輸事件が、グループの後継者争いをひっくり返した。

 1966年、釜山税関が58トンのサッカリン原料の密輸を摘発した。韓国肥料が建設資材と偽り日本から持ち込んだのだ。秉チョル長男の孟熙と次男の昌熙の関与が明るみになり、昌熙が逮捕された。結局、秉チョルは事件の責任を取り財界を引退。また、保有していた韓国肥料の51%の株式泣く泣く国に献納した。

 当時36歳だった孟熙は、グループ総帥代行として10社ほどで副社長を務めていた。まだ長子相続が大原則だったころで、グループを継承するのは長男の孟熙とみられていた。

 秉チョルは自伝に、「周りの勧めや本人の希望があり孟熙にグループの一部の経営を任せてみたが、半年たらずで任せた企業はおろかグループ全体を混乱に陥れた。本人が申し出て退いた」と書いている。一方、孟熙自身は半年でなく7年間サムスンの経営に携わったという記述を残している。

 グループ内部の混乱や青瓦台(大統領府)投書事件などが重なり、孟熙は父の信頼を失い、海外を転々とするようになった。復帰のチャンスは何度かあったものの生かしきれず、1971年、ついに秉チョルは健熙にグループを任せる決断を下した。

 健熙にも危機はあった。副会長時代の1982年秋、ソウル市内を運転中に突然ダンプトラックが目の前に現われた。健熙はあわててブレーキを踏んだが、車の外に投げ出された。あわや大惨事の事故だったが、比較的軽傷で、2週間で回復した。しかし、世間ではこの交通事故をめぐりさまざまなうわさが飛び交った。鎮痛剤の多用により健熙が麻薬中毒になったというデマも流れた。

mgk1202@yna.co.kr

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